26年度 東北スタディーツアー報告(その1)

さあ出発だ!!
さあ出発だ!!

 ざま災害ボランティアネットワーク(ZSVN)は座間市社会福祉協議会に協力して2014年の東北にスタディーツアーへ参加しました。

2011年3月から3年5か月が経過しようとしています。座間市社会福祉協議会とざま災害ボランティアネットワークは発災直後の市民から、被災地への支援物資の提供を皮切りに、7月には東松島支援活動を、翌年2月には釜石市内仮設住宅生活者支援などのお手伝いをさせていただきました。

また、ZSVNは、独自に「たいやきプロジェクト」を作り、大槌町で活動している団体への仕事創出のお手伝いをはじめ、女川町の活動団体や石巻市の商業施設、大熊町への支援活動をさせていただきました。現地の復興を妨げない範囲で現在も継続させていただいています。

 2012年、2013年は、座間市社会福祉協議会と共に中高生を被災地へ引率、現地の災害の状況を見学すると共に短時間ながら復興支援の役に立つボランティア活動をしながら「スタディーツアー」を応援してきました。

 

 今年度は、今後、首都圏で起こるとされている災害に対して、東日本大震災の中から得られる教訓を生かせるような企画にすることを目標にして取り組みました。

7月、市内全中学生を対象に募集のビラを配布し、座間市社会福祉協議会HP,タウンニュースなどの媒体広告を活用して募集をしました。今年は予想を超える応募者がありました。少しでも多くの参加者を受け入れるように社協やZSVNの引率者の参加枠を削って参加希望者を受け入れ30名のチームを編成しました。

 

 事前学習会を経た合計35名(うち5名が引率)は、8月8日夜9時に座間市を出発して一路釜石市を目指しました。日本列島は、台風11号が居座っており西日本では大雨による被害が出ていましたが、台風の情報を分析した結果、大丈夫との判断で計画通り実施をしました。これから何回かに分けてその活動を報告させていただきます。

 

 座間を出たバスは、圏央道を利用して東北道へ向かいました。圏央道は厚木ICから高尾山の下をくぐり鶴ヶ島までは開通しています。その先は一部一般道を利用しなければなりませんが、首都高を使うよりも早く東北道へ出ることが出来ます。バスは、曇り空の下を釜石市へ向けて走り続け、翌朝5時30分遠野市の風の丘に到着しここで時間調整をして9時少し前に釜石市社協「生活ご安心センター」へ到着しました。

 

 ここからは、3年間お世話になっています、矢浦さんと合流しました。挨拶の後、さっそく、市内の見学に出かけました。

今回は、全国的に有名になった釜石市の防災教育の取り組みの成果が示された鵜住居(うのすまい)小学校、釜石東中学校の児童、生徒があの日たどった道を、参加者自身の足で歩き避難行動そのものを体験してもらいました。工事車両の通行量が多いので全員がオレンジ色のビブスを着用して行動しました。

 

 この学校で起きた出来事は、すでに多くの場で発表されています。したがって省略します。両校ともすでに解体され更地になり盛り土の工事が行われています。矢浦さんから地震直前の鵜住居の地域の景観について話がありました。そして、地震が起きたあの日の話がありました。あの日、中学生は先生の指示を待たずに各人が避難者となって高台へ避難行動を始めました。先生方が津波襲来を生徒に知らせに行った時には、ほとんどの生徒は避難行動をとっていました。一方、隣の小学校ではマニュアルに従って校舎3階に避難していましたが、消防団などの勧告にしたがって中学生を追いかけるようにして高台へ向かって避難をしたようです。

私たちも、最初の集合地点「ございしょの里」へ向かって避難行動をとりました。まだ、道は平たんですが徐々に上り始めています。そので、子供たちは、地元の年寄りからがけ崩れを指摘され、さらに高いところへ移動をはじめました。このあたりで対岸にあった学童保育、保育園などの子供たちも避難をしてきたようで合流し中学生たちの応援を受けながら避難を続けたようです。

 

 私たちも避難ルートを辿りました。ここからはかなりの上り坂になっています。保護者の中には遅れる人が出始めました。中学生は避難者をサポートしながらヤマザキデイサービスを過ぎて45号線の交差点にある石材店の広場に集結したようです。私たちもようやくここに到着しました。

 実は子供たちは、さらに先の体育館を目指して停電により真っ暗になった国道のトンネルの中を壁を伝いながら避難を続けたようです。また別ルートを使って避難をしたグループもあったようです。結局、津波はヤマザキデイサービスの下あたりまで来たようです。私が、畑で仕事をしているお年寄りから聞いた話では、この避難路の真ん中に川の向こうにあった家が流れてきてどっかりと座りこんでしまったということでした。そのお年寄りも孫たちに連れられて避難したようです。こうして、約3か月にわたる体育館などでの避難生活が始まったのです。

 

 私たちが、座間市で火災が起きた時に的確な避難ルートを頭の中に描きながら避難行動が出来るか・・課題が見えました。

矢浦さんの話にも合ったように、結局は各人が「率先避難者」となって行動を示せば大人たちもついてくるということに尽きるのだと思います。「自分で考え、自分で行動する」ということなのです。これこそが「自助」です。

 

 ここから、バスに乗り鵜住居駅に回りました。駅舎も線路もない駅のホームに上り何もなくなった鵜住居地区の景色を眺めていました。その後、駅前にあった防災センターに向かいましたが、昨年参加した人は建物の中に入りましたが、跡形もなくなっていました。代わりに小さなお堂が建てられていました。全員でお参りをしました。

ここで、市内全域にサイレンが鳴りわたりました。8月9日 長崎原爆の日の黙とうの合図のサイレンでした。私は西の方角に向かって「黙とう」をささげました。

 

 今日の昼食は、「宝来館」で食べることになっていました。この旅館は比較的高台にあることから「避難所」となっていたそうです。建物の被害状況は短時間の動画が流れたほか、女将の勇気をたたえるニュースが流れたことで有名になりました。細かなことは各自が調べてください。

現在は、建物も改修工事が終わり、一階部分の増築工事が行われていました。「海鮮どんぶり」をいただきました。旅館の前の海岸には、何もなかったように波が打ち寄せていました。素晴らしい景観です。

昼食後、市内の状況の説明をしていただき出発地点の「生活ご安心センター」へ戻ってきました。

自由時間をちょっととって買い物などをしました。矢浦さんとお別れし次の目的地である陸前高田市へと向かいました。