石巻たい焼き支援活動フィナーレを迎えました。

 私たちは、震災後女川町の若者が中心となって企画された、第1回、2回の女川町「我歴ストック」の復興イベントへ参加させていただききました。そのご縁でつながることができました「夢ハウス」様に「たい焼き」技術移転(大げさですが)と機材の貸し出しをさせていただきました。そのことが、女川のばっちゃんたちの努力が実を結び、現在の銘品「サンマ名焼き」が誕生したといわれています。

 

 さらに、輪は広がり、様々なご縁で「まちなか復興マルシェ」という仮設商店街に

作られたイベント広場のその一角に設けられたキッチンカーを不定期的にお借りして「たい焼き」を通じて、市内の被災された方々へ元気を差し上げる活動に結び付き今日まで継続することができました。

 

 やがて、石ノ森萬画館も津波の被害から立ち直り2012年11月に再開を果たしました。その場の感動の中でたい焼きを焼けたこと、さらに2013年3月にリニューアルでもちょこっとお手伝いができたことは、私たちの誇りだと思っています。

 町の中がいくらか整理され始めたた2013年からは、観光客も増加しました。そこで商店でお土産、お食事をされた方の、レシートの金額に応じてたい焼きをプレゼントする方法で、商品の販売促進への貢献を目指しました。ここで得たノウハウは陸前高田での活動にも生かすことができました。

 

 しかし、私たちにとっては残念なことでしたが、復興商店街も区画整理で移転することになりました。キッチンカーの使用もできなくなりましたのでこれで活動も終わりかな?と考えていましたところ、萬画館前でのイベントにテント方式で出店、お手伝いさせていただけることになりました。おかげさまで、今日まで不十分ではありましたが、お手伝いを続けることができました。

 

 アニソンライブには驚くほどの来場者があり、たい焼きのテント前も人波で埋まる景色を見せていただけました。次から次へと繰り出される企画は、スタッフの皆様方の努力だと改めて立ち上がろうとする強い力を感じることができました。

月日は流れて、震災から5年半の歳月がたちました。復興住宅も姿を現し 女川町へ続く橋の準備工事も始まりました。

 

 実は、私たちのこの活動を資金的に応援してくださったのは、神奈川県座間市民の方々なのです。市内のイベントに「たい焼き」のブースをいただくことで、たい焼きを焼いて販売することができたのです。その一枚一枚のたい焼きの売上金を蓄積して、原材料費、高速道路通行料、燃料代を賄わさせていただいてきました。(余談で自慢話めいてしまいますが、宿泊・活動中の食事などに伴う費用はすべて参加者の自己負担でさせていただきました。これは、ボランティア活動は自己完結というポリシーを貫くプライドのようなものです)

 

 私たちは、この活動のほかに、福島県大熊町から避難されて会津若松市、いわき市にお住いの方々に元気を差し上げるための「ふるさと祭り」のお手伝いもさせていただいています。引き続きお手伝いをさせていただきます。

その中で、5年半という歳月を見つめて、私たちも元気ないま、一度、活動を振り返りこの先のことを考えようということになり今回の10月の活動で幕を閉じることにいたしました。

 

 最終日の10月10日、活動終了のご挨拶をしようと思っておりましたところ、萬画館のイベント担当スタッフ全員の方々からこのような贈り物をいただきました。びっくりしております。

何枚のタイ焼きを焼いて差し上げたかは定かではありませんが、たい焼き屋の商売ができるような腕になったと自負しています。利き腕の内側には火傷の後がいくつも残っています。名誉の負傷と思い出に残したいと思います。

 

 今後は、座間から石巻のまちが再興をする姿を見てゆきたいと思います。

また、観光客として宮城県を歩きたいと思います。その際には、必ず、石巻そして萬画館を忘れないようにします。

 

 私たち、ざま災害ボランティアネットワークの本来の活動は、地域へ減災・災害対応の知識と技を広めることです。石巻の活動の中では、多くの市民の方々から「あの日」にあった出来事を涙を流しながら、手を握り合いながらお聞きしました。

座間市には海はありませんが、災害の可能性はたくさんあります。そのような中で災害からの学びを伝えてゆきたいと思います。

果たして、5年半が長いのか、短いのかわかりませんが、本当にお世話になりました。私たちは石巻市民のことを忘れません。どうか、皆様も私たちの「たい焼き」を忘れないでください。